地区の紹介 やいか (矢井賀)

□ 矢井賀地区

中土佐町矢井賀地区は、高知県高岡郡中土佐町の南の端に位置している小さな集落です。

地元では、“やいが”ではなく、親しみを込めて“やいか”と呼んでいます。

現在では、地区内に主だった産業といえるものはなく、海と里と山の恵みに支えられて日々

が営まれています。

住民の高齢化と人口の減少という中山間地域共通の大きな課題を背負っていますが、まだまだ元気な住民パワーで『矢井賀をなんとかしよう!』と動き始めています。

矢井賀の位置図

□ 矢井賀地区へのアクセス

矢井賀には、中土佐町の中心久礼地区から県道25号線を使ってアクセスできます。

また、四万十町志和地区からも同じく陸路にてアクセスできます。

公共交通の利用では、久礼地区からのバスのみとなります。

矢井賀へのアクセス

☆鉄道+路線バスでの移動

JR土讃線土佐久礼駅(特急停車駅)にて下車。バス停久礼駅前(駅からまっすぐ200mほど歩きます)から高知高陵交通のバスにて矢井賀まで約30分。バスの運賃660円(小人330円)

JR土讃線の情報はこちら ( http://www.jr-shikoku.co.jp/)

高知高陵交通の情報はこちら(http://www.k5.dion.ne.jp/~daigae/Kouryou/K_TimeT.html)

 

☆路線バスでの移動

高知市方面から高知県交通のバス(梼原行き、須崎行き、杉の川行き)にて須崎営業所下車。高知高陵交通のバス矢井賀行きに乗り換え。

高知県交通の情報はこちら(http://www.kenkoutsu.net/)

高知高陵交通の情報はこちら(http://www.k5.dion.ne.jp/~daigae/Kouryou/K_TimeT.html)

 

☆タクシーでの移動

中土佐町には中土佐ハイヤーがあります。

9人乗りジャンボタクシーもあって便利です。

土佐久礼駅−矢井賀の片道目安運賃は約3,000円

電話:0889−54−1234(営業時間8時〜24時)

 

☆自動車・自転車にて

自動車で高知自動車道“土佐久礼IC”より、国道56号と県道25号線を走って約25分。

天気の良い日には、山や海を楽しみながら自転車でのツーリングもオススメです。

 

□ 矢井賀地区の歴史

― 矢井賀のはじまり ―

矢井賀の宿の谷あった『火燈社』という神社に、応永8年4月21日(1401年)、宝徳元年10月11日(1449年)、文亀3年9月6日(1503年)の3つの古い棟礼があったと『南路志』や『土佐国蠧簡集』、『土佐国編年紀事略』に記載されています。

この『火燈社』は村岡氏(後に岡田姓に改姓)一門の氏神として古くから祀られてきたもので、その先祖書によると、村岡氏はもともと紀州から浪人となって矢井賀に移り住んだとあります。このことから、室町時代の初期にあたる1401年には、既に矢井賀に人の住む痕跡があったということになります。

この頃の矢井賀は、仁井田郷(現在の仁井田、窪川、松葉川、東又、志和の地域)に属しており、直接的には仁井田庄を支配していた5人の豪族(窪川氏、西原氏、東氏、西氏、志和氏)のひとり志和氏の支配下にあり、一条教房の土佐中村来往にあたってその志和氏は一条氏の支配下に入ります。

― 長曽我部氏の頃の矢井賀 ―

元亀2年(1571年)に一条氏が長曽我部氏に敗れると、志和氏はそのまま長曽我部氏に降伏します。

その後、豊臣秀吉の命によって取りまとめられた長曽我部地検帳には、矢井賀の状態が次のように記されています。

項目

面積

4町5反10代5分

畠(畑)

1町5反35代3分

屋敷

5反38代5分

合計

6町6反35代2分

矢井賀の土地利用状況 長曽我部地検帳より

また、矢井賀には百姓や志和氏の家老、家臣などの家が11戸記録されており、使用人の数も含めれば30〜40人が暮らす集落であったのではないかと考えられています。

― 矢井賀の発展 ―

当時の矢井賀は田畑を耕して生計を立てる純農村であり、浦分(海岸周辺部)は薮や荒れ地のままで人家もなかったようです。

やがて時代がすすみ、土佐の国の主が長曽我部家から山内家に変わると、仁井田郷の領主として林伊賀一吉が抜擢されました。その孫にあたる山内丹波が知行地の収入を増やすため、矢井賀の浦分に目を付け、寛文7年(1667年)開墾を開始しました。

これまで舟の一艘もなく漁師もいなかった矢井賀浦に、当時浦分として栄えていた志和の半助(戸田氏の祖)が、孫九郎、七左衛門の3人で移り住み、矢井賀で初めての漁師として生計を立て始めたとあります。これより領主の特別な庇護もあり、矢井賀浦の発展が始まります。

当時の矢井賀を知行地とする山内丹波は、他の浦では厳しく管理(藩への供出など)されていた漁獲等を半助に自由に売買させ、さらには領浦、領民に対して藩の小役人が介入できないよう一種の治外法権的な扱いをしていたとあります。これにより、『矢井賀よいとこ』と、漁師ばかりでなく商人なども続々とやってきて、矢井賀は急速に発展することとなりました。

開墾前には人も住まなかった矢井賀浦分ですが、半助から75年後の寛保2年(1742年)には矢井賀浦分に50戸余りの家屋が並んだとあります。なお、山内丹波の領浦領民として特別な扱いを受けた矢井賀浦分の住民は、丹波と主従の関係にあり、丹波が視察に来られたときには、土下座で迎えたとあります。しかし、浦分ほどの待遇を受けていない矢井賀郷分に住む住民は土下座しなくとも咎められることはなかったとのことです。

いよいよ浦分が発展した文政5年(1822年)に出版された『諸国鰹節番付表』では、矢井賀で作られた矢井賀節が、なんと東前頭7枚目にランクされています。

大正9年“出征軍人の見送り”矢井賀浦分の風景:写真集“中土佐の今昔”より

― 矢井賀の行政 ―

藩政時代は郷分と浦分にそれぞれ庄屋が置かれていましたが、明治3年に庄屋制から郷制となり、矢井賀(大矢井賀、小矢井賀)は大鶴津、小鶴津とともに志和郷となりました。

その後明治11年には町村制となり、高岡郡矢井賀村として大矢井賀、小矢井賀がひとつになりました。

さらに明治22年の自治制の施行により、それまで行政的にはほとんど無縁であった上ノ加江と合併して上ノ加江村となり、大正4年に上ノ加江町、昭和32年の久礼との合併により中土佐町、平成18年(2006年)に大野見村と合併し、現在の高岡郡中土佐町のかたちとなりました。

― 矢井賀の学校 ―

矢井賀は室町時代の初めの頃から歴史に登場し、浦分の発展とともに大きく飛躍してきました。明治10年には寺子屋式による小学校が開校し、昭和22年には学制改革により上ノ加江町立矢井賀中学校が開校されました。

昭和30年代初期までは小学校中学校ともに毎年30人前後の卒業生を送りだしていましたが、矢井賀の人口減少とともに児童生徒数も減り、昭和36年に中学校が上ノ加江中学校へ統合され、平成21年には小学校も同様に統合され、矢井賀小学校は休校となりました。

昭和22年頃の矢井賀の風景:写真集“中土佐の今昔”より

― 矢井賀の現在 ―

一時は海の恵みで繁栄した矢井賀ですが、大敷網からの撤退など沿岸漁業の不振や他漁村の台頭などにより次第に活気を失いはじめました。

現在では、漁業を専門に行う漁師の数も減り、釣り筏の運営やスキューバダイビングサービスなどが主な産業となり、次第に地区の人口は減少傾向となりました。

現在では、人口は300人を割り込み、65歳以上が占める割合を表す高齢化率も約60%となっています。

現在の矢井賀の風景:矢井賀小学校(休校)前